三浦展・上野千鶴子『消費社会から格差社会へ』

日本でもっとも有名な社会学者と日本でもっとも有名なマーケッターの対談本。二人とも反感をもたれてもおかしくないくらい正直に語っており、対談としては成功の部類に入るだろう。

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

 ラカン精神分析の樫村さんの新書。まるで辞典のように、難解な概念が飛び交い戸惑ってしまう。「再帰性」「象徴の貧困」「ハヴィトゥスを持たないハヴィトゥス」といった現代思想の最新用語が飛び交う。概念をある程度解説してくれているので、辞書的には使えるが、全体を通して主張を俯瞰しようとすると、論旨が右往左往し、なかなか困難である。しかし、「再帰性」を理解しようと思ったら、まだギデンズのモダニティと自己アイデンティティの方が分かりやすい気がするがどうだろう。

地位の非一貫性の辛さ

 ある会社で聞いた会話。
Aさん「36でまだ寮に住んでるんだって、課長」
Bさん「独身だもんねぇ、早く結婚すればいいのに、寮のみんなも気を使うじゃん」
Aさん「でもさ〜なんか結婚出来ない何かがあるんじゃないの。だってあんなに給料貰ってるのに結婚出来ないのはおかしいよ」

 この話は割りと一般的な良く聞く話である。会社では、30過ぎて結婚していないとあまりいい印象を持たれないようである。でも、なぜ結婚しないだけで、そこまで非難されなければならないのか、少し不思議に思うので、ちょっと社会的資源と絡めて考えてみた。
 社会的資源とは、
・富(どれだけ給料をもらえるか) 
・勢力(どれだけ影響力を与えているか) 
・威信(どれだけ凄いと思われるか) 
・知識・技能(読み書き能力や、特定の専門的能力)

の4つだとされている。この4つは社会的に皆が欲するものであり、希少性があるために価値があるものとされる。社会的な地位は、社会的資源の量によって測られてきた。

 もし、彼がニートであったなら、そこまで非難されることがあっただろうか。恐らく、他の倫理的問題について非難されようが、配偶者の有無については非難されないはずだ。なぜなら、配偶者を手に入れるための社会的資源が不足しているために、結婚していないことは、あくまで地位的な問題となる。彼は給料が少ないから、結婚出来ないのだと。つまり、問題は社会化される。
 だが上記の会話の例だと、企業に勤めており一定の収入、しかも普通の人よりも高い報酬を得ている。よって、配偶者を手に入れるために、すなわち手段として一定の社会的資源を保持していることになる。とすれば、彼は交換可能にもそれを手に入れていない、そうか、その社会的資源を打ち消す何かが彼にはあるはずなんだ、と問題が個人化される。
 ここに非一貫性の辛さがある。

パターン変数について

パターン変数とは、行為者がどういう状況においても直面する根本的なジレンマを定義したものだとされる。このようなジレンマは4組ある。
?個別主義―普遍主義
一般的な基準に基づいて人を判断するか(普遍主義)、あるいはその人に固有の基準で判断するか(個別主義)、行為者は決定しなければならない。
?業績―属性
相手が何をなすかによって人を判断するか(業績)、相手の個人的特質によって判断するか(属性)、行為者は決定しなければならない。
?感情中立性―感情性
行為者は他者と関係を取り結ぶにあたり、感情的関わりを離れて道具的理由に基づいて関係することもできるし(感情中立性)、あるいは感情をまじえた理由に基づいて関係する(感情性)ことも可能である。
?限定性―無限定性
どんな状況であれ行為者は、極めて広い範囲にわたる活動全体にわたって他者と関わるか(無限定性)、あるいは特定の限定された目的に沿ったかかわりだけにするか(限定性)、いずれかを選択しなければならない。
アーバンクロンビー『新しい社会学辞典』P300

自己志向と集合体志向の変数が抜けているのは何故?

パターン変数と呼ばれる5組の二分法的変数、すなわち?感情性と感情中立性、?自己志向と集合体志向 ?個別主義と普遍主義 ?所属本位と業績本位 ?限定性と無限定性、をいう。パターン変数は、相互行為過程に一定の規則性。斉一性をもたらす規範的要素を体系的に分類するための概念図式であり、その規範的要素とは、文化体系においては規範の型、パーソナリティ体系においては欲求性向の型である。

早寝早起きになるには・・・

 午前5時までおきていて、そこから暴睡してしまい、目覚めたのが午後3時。かなり時間を損していると思われるので、12時に寝て6時に起きるような、一日6時間サイクルをやりたいです。
 学校までの距離が遠くてなかなか難しいのですが・・・

ウェーバーの学歴論

支配の社会学 1 (経済と社会)

支配の社会学 1 (経済と社会)

 マックス・ウェーバーの著作『経済と社会』からのシングルカット。

第三節 官僚制的支配の本質・その諸前提および展開
八. 教養と教育との「合理化」

 この発展は、とりわけ、専門試験によって獲得される教育免状のもつ社会的威信によって、強力に助長される。教育免状の社会的威信自体が、更に経済的利益に転化されるのであるから、なおさらである。(p137)

 われわれは、整然たる教育課程と専門試験の導入を求める声が、あらゆる分野で高まりつつあるのを聞くのであるが、……教育免状の所持者のために地位の供給を制限し、これらの地位を彼らだけで独占しようとする努力が、その原因をなしているのである。ところで、この独占のための普遍的な手段は、今日では「試験」であり、それ故にこそ、試験が制しがたく進出を続けているのである。

ブルデュー『ディスタンクシオン』 流し読み

訳者の石井氏による用語の定義。

○卓越化(distinction)
他者から自分を区別してきわだたせること。これが階級分化と既成階級構造の維持の基本原理となる。

文化資本(capital Culturel)
広い意味での文化に関わる有形・無形の所有物の総体を指す。具体的には、家庭環境や学校教育を通して各個人のうちに蓄積されたもろもろの知識・教養・技能・趣味・感性など(身体化された文化資本)、書物・絵画・道具・機械のように、物資として所有可能な文化的財物(客体化された文化資本)、学校制度やさまざまな試験によって賦与された学歴・資格など(制度化された文化資本)、以上の3種類に分けられる。

○学歴資本(capital scolaire)
学校制度によって与えられたいわゆる学歴、およびそれに付随するさまざまな個人的能力や社会的価値の総体。したがって、……「文化資本」の第三形態にほぼ重なるが、第一の形態にもかかわるものであり、いわば「学校」という場で獲得された文化資本の一特殊形式であるといえる。

 ある位置に結びついたさまざまな性向はいずれも同質のものであり、またこの位置につきもののいろいろな要請にたいして一見奇跡的とも思えるほどに適合しているものであるが、これは次の二つのことから生まれる結果である。まず第一にそれは、自分がまさに自分のために作られているかに思えるポストのために作られているのだと感じる――それがいわゆる「天職」、つまり自分の出身階級に最も多く見られる軌道がいかなるものであるかに応じて自分に課されてくる客観的運命を、あらかじめ予測してひきうけることという意味での「天職」である――にせよ、あるいは現にこれらのポストを占めている人々にたいして今述べたような存在として現れる――それがさまざまな性向の即時的調和の上に成り立つコオプタシオンである――にせよ、前もってその位置に適合するよう調整された個々人をそれぞれの位置へと方向付けてゆくメカニズムの結果であり、またもうひとつには、生涯を通じて性向と位置のあいだに、また願望と実現のあいだに張りわたされてゆく弁証法的関係の結果なのである。社会的老化とはこの緩慢な喪の作用、あるいは……(社会的に援助され奨励された)投資縮小の作用に他ならない。この作用によって行為者たちは、自分の願望を今ある客観的可能性に合わせ、そうして自分の置かれている存在状態と折りあいをつけて、自分があるがままのものになろうとし、自分が持っているものだけで満足しようとするよう仕向けられてゆくのだ。(p172-173)

 かなりの悪文。一文が数行に渡っており、原文を調べた方が早いかもしれないが、要するに「冷却」について語っている。近代社会はメリトクラシーの社会である。メリトクラシーとは、アリストクラシー(属性主義)に対して、業績主義と訳される。すなわち、近代に入るまでは、身分によって自分の到達可能性が決まっていた。例えば、日本の士農工商なんてのはまさにそうで、農民の子は農民になり、武士の子は武士になる、といった強固な階層社会を作っていた。だが近代社会に突入すると、近代国家を標榜し全ての身分が平等であるとする「四民平等」政策が取られた。また、憲法上で「職業選択の自由」を保障することによって、いかなる出自においても公平に「能力」に基づいて地位ないし職業が配分される、といったメリトクラシー社会が理念的に成立したことになる。
 基本的に、メリトクラシーは選抜と配分にかかわる。ただし、ここで注意しなければならないことは、一人の勝利者は、多数の敗者に基づいて存在していることだ。近代社会に入って自分の好きなように職業を選べることは、実際に自分がその職業に就けることをそのまま意味するわけではない。可能性としては存在するが、実現できるとは限らない。「夢」は「夢」のままで終わる可能性だってある。その「夢」が叶わなかった場合、彼らはどのような行動を起こすのであろうか。
 一つの方向性として、彼らは自分の失敗に対して恨みの感情を抱くかもしれない。努力すれば「夢」は叶うって、みんな言ってたのに叶わないじゃないか!メリトクラシーは失敗者の方が相対的に多いシステムである。とすれば、このような恨みの感情を持つ者が大量に出現することになり、存立している社会システムの維持が困難となる。そこで必要とされる機能が「冷却」である。ヒーターのようなもので「加熱」させられた競争意志を、クーラーで「冷却」する。この機能が無ければ、メリトクラシーの社会が継続している、という事実に対して、説明が困難となるだろう。
 ブルデューは、この「冷却」を「社会的老化」という概念で説明する。
 冷却は二パターンあるように思われる。まず、選抜の選抜での脱落時の冷却、次に選抜後の失敗における冷却である。例えば、大学受験を例に見てみよう。高校入学時、われわれには次の選抜段階、すなわち大学入試まで3年の猶予が与えられる。猶予期間の間に、学校のテスト、先生との進路相談などによって、選抜に進むことができるかどうか、を判断されるわけである。東京大学を受けようと思っていたが、模擬テストの結果、合格可能性が30パーセント未満だったので、志望校をより簡単な学校へと変更する、といった行為は、ブルデューのいう「投資縮小」の作業であり*1、選抜段階以前にふるい分けられた一例である。
 さて、無事に学校での模擬テストや進路相談の結果、東京大学の受験資格が得られたとする。だが、残念ながら二次試験で落ちてしまった。そこで行われる「冷却」は、試験の正当性であることは間違いない。試験制度は、価値中立、普遍性、公平性などの価値を反映している。すなわち、純粋な能力による選抜が行われている、という制度に対する信頼に基づく。この信頼が担保されているときにおいてのみ、失敗したとしても、自分には実力が無かったんだと、社会的な制度に規定されることによって、諦念的な感情を持つことになる。
 ここで問題なのは、果たして選抜基準があいまいな選抜において、人々はどのように「冷却」されていくのか、ということである。さまざまな選抜に対して問題意識を広げていく上で、この問いは非常に重要なものになると思われる。

*1:ここで言う投資は、費用であったり、努力であったりする。合格率30パーセントの大学に合格するためには、相当の時間をかけて現在以上の学習する必要があり、必要ならば予備校や教材への惜しみない資金投入も考えられる。もし、ここで志望校のランクを下げて、90パーセントの大学を選択した場合、予備校に行かなくても、現在の学習でおそらく入学できる。その意味で、自分に投資するものは当初より少なく見積もることができる。